人も自然もすべて凸凹で完璧

人間とは凸凹な生き物である。


一般的に、凸は長所、強み、できること、

凹は短所、弱み、できないこと、と捉えられている。


しかし、そもそも人間が属しているはずの自然界には、直線などあり得ないし、完全な球体も存在しない。大自然は、木も、山も、川も、海も、一つひとつとしての物質は、すべてがユニークな形をしていて、整っていない。しかし、その全体を見れば、その美しさに感動し、癒され、安らぎを与えられる。


つまり、自然界はパズルのピースのように、一つひとつは不揃いな存在であっても、すべてが合わされば(すべてが合わさってはじめて)、完璧な存在になるということを教えてくれる。


自然界から生き方を学ぶのであれば、すべてのことを自分一人でできるようになることが素晴らしいのではない、ということが理解できる。



凸の魅力はわかりやすい。

それは、誰かの凹を満たす価値になる。


人生の目的が、世の役に立つ(誰かの幸せを創造する)ことであるならば、凸は自分の存在価値となる。誰かの役に立っているという実感ほど、自分の存在価値(自己重要感)を味わえることはない。


長所を伸ばすこと。好きを極めること。できることを増やすこと。

凸を育てることは、自分の存在価値を拡張させてくれる。



では、凹とは何か?


短所、弱み、できないこと…

一般的に、凹にはネガティブなイメージがついている。


本当にそうだろうか?

凹を無くすこと、もしくは凹を隠すことは正しいことなのだろうか?


僕は違うと思う。


なぜならば、凸を活かすためには、絶対に凹が必要だからだ。

自分に凹が無ければ、誰かの凸は活かされない。

自分の凹を否定するということは、誰かの凸を否定するということだ。


視点を変えよう。


上で述べたように、もし、凸を活かして世の役に立つ(誰かの幸せを創造する)ことが、自分の存在価値となること、つまり生きる上で最大の幸福感を味わえることなのであれば、自分の凹を認めることは、誰かの存在価値を創造することになる。

自分の凹が、誰かが生きる上で最大の幸福感を味わえる場になるのである。


考えてみてほしい。


誰かの存在価値を創造すること以上に、世の役に立つ(誰かの幸せを創造する)ことなんて、

あるのだろうか?


言葉を変えよう。


自分に凹があること以上に、凸となる(世の役に立つ)ことなんて、

あるのだろうか?


つまり、俯瞰的にこの世界を見れば、


凹とは、凸なのである。

自分に凹があること以上の凸はないのである。


そう考えれば、

凸や凹は、球体のような完全体に対して、

過不足を表しているのではなく、

ただの“カタチ"であることがわかる。


5本の指の間に4つの空間があることに、不足を感じないのと同じように、

凸が飛び出ているのでも、凹が足りないのでもなく、


ただ、そういう“カタチ”なだけなのである。



お遍路中、僕は凹だらけだった。


お金もなければ、食べる物も家もない。労働もできないし、誰かに何かを与えることもできない。

できたのは、祈ること。そして、感謝すること。それだけ。


そして、僕は凹だらけな自分を生きた。その結果、たくさんの愛が集まってきた。


僕に必要なものを与えてくれた人はみんな笑顔だった。幸せそうな顔で、たくさんの愛を与えてくれた。


もしかしたら、僕の凹というカタチが、誰かの凸を活かし、凸と凹が一致するという共存の幸せを生み出せたのかもしれない。



人間とは、凸凹な生き物である。


凸を誇ることも、凹を恥じることも、必要ない。

大事なことは、そのカタチを認めること。受け入れること。


そんな自分を愛するということ。

それができれば、他の誰かと共存できる。共に幸せに生きられる。



ありのままの自分を愛そう。

ありのままの自分を愛することができれば、ありのままの他者を愛することができるようになる。


共存と調和からなる世界平和は、そこから始まるのかもしれない。

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